その9 編集後記
本物の漆器、それは人の価値観を変える要素を持っている。
鈴木氏の話を聞きながらそんなことを考えていた、彼が漆器を通じて私に語りかけたことは、今の物質にあふれた市場と共にある豊だと思っていたライフスタイルが本当に豊かなのか。
彼の話した「本物の漆器」の話はその卓越した技術力や芸術性を聞くのと同じほどに面白く力強いものだった。思いもよらぬ面白さ、それは人間の力が及ばないところ地球から与えられた素晴らしい漆の力。生きることが今ほどに容易くなかった時代、人のために生まれ与えられたかのような、その解明しきれない力は、彼と「本物の漆器」について書き進めるほど心を揺さぶり、ただ信じてきたものや疑問を感じながらも目を伏せひっそりと抱えこんだものに目を向けることとなった。
科学は汎用技術となり合理化を進め、表面的な多様性を生み多彩な製品を作り出した、しかし本質に欠けたそれらはただそれだけに留まってしまい、そこから語るには限界があった。
本質があるかどうかそれは一目に大きな違いはないだろう、しかし本質を持つものには人の価値観を揺さぶる力があった。
本質は価値観を揺さぶり新たな可能性を生み出す、それは汎用技術から生まれる多様性よりも深みのある力強い原動力となり大きな変化や進化への可能性を生み出しその連鎖は世界を変えるきっかけにすらなりうるかもしれない。
科学技術では到底作り出すことなど出来ないような力、人に出来ることはせいぜいそれらを上手に利用するだけだろう、なぜにそのようなものが生まれたのか人知が及ばないからこそ触れたくなる漆の世界。本質が魅せてくれた世界は大きな可能性に富んだ刺激的な世界だった。
彼の話した「本物の漆器」と「漆器」の違い。
その二つの違いのもう一つの側面は、今すぐ手に入る「漆器」といつかに手に入れたい「本物の漆器」、私の貧弱な財布を基準に考えればそういう違いとなってしまう、「本物の漆器」は魅力的だが現実は遠い存在だ。
「本物の漆器」はマスマーケットからは遠い存在で「漆器」は近い。
このマスマーケットに適した「漆器」の存在が今の会津漆器を支えている一要因であるのは間違いないだろう、単純にいつかに手に入れようという躊躇は大きな機会損失だ。
そのマスマーケットの中で「本物の漆器」と「漆器」を的確に差別して販売している人と購入している人がどれほどいるのだろうか、それは調べたり聞いたりすればすぐ手に入る知識だがどれほどの人がその知識に触れているのだろうか。
漆器産業の外にいる私が「本物の漆器」と「漆器」の違いを書き記すことは彼らにとっては余計なお世話だろう。
しかし今私の中で、いつかに手に入れる「本物の漆器」は少し近い存在となっている。お財布の貧弱さは変わらない、それでもいつか手に入れたいという思いは、この次お碗が割れてしまったら本物の漆器を手に入れるという確信に変わった。
マスマーケットとそこに適した「漆器」、それらは今漆器に関わる人々の世界を安定に保つために必要なものかもしれない。
それでも余計なお世話をしてしまおうと思ったのは、「本物漆器」が魅せた世界が刺激的な可能性をもつ魅力的な世界だったからで、そんな未来を魅せてくれる本質の力は、マスマーケットという土俵ではないところで多くの人を魅了するはずだと思ったからだ。
ライフスタイルをどのように豊かにするかは人それぞれ。
さて、同じ物を選択するにあたり、自身の価値観を揺さぶられるものとそうでないもの、どちらのものに囲まれたライフスタイルが豊かであろうか。
「本物の漆器」の持つ刺激的な本質は価値観の変革という魅力的な挑戦をもたらし、ライフスタイルの変化と共に新たな未来を私に指し示そうとしている。