檜枝岐歌舞伎

introduction

南会津はさらにおく深い山間に檜枝岐村はある、その奥深い地形から独特の伝統を保ち続けてきた。この地に江戸時代から伝わる農村歌舞伎がある、約270年前に購入した浄瑠璃本が残ることからそれ以上の歴史を有すると言われ、舞台は鎮守神の境内に神社に向け拝殿のような形態をとり建てられ、神への奉納と村人の娯楽として受け継がれてきた。深い山に閉ざされた檜枝岐村、闇夜に包まれるとき歌舞伎と共に生きる村の姿が露にある。

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その2 落人伝説が残した歌舞伎

村には「星」「平野」「橘」の姓が主立ち歴史をたどれば平家の落人伝説に通じる。
794年頃、もとは藤原の姓を持つ者達、身を隠すためその名を名乗り続けるわけにもいかず故郷紀州の“星の里”から「星」と姓を変え、村の中心地で暮らすようになったといわれる「星家」
その約400年後、詳細は不明だが家紋が平家と同じ「揚羽蝶」であること、そして一切の記録が残っていないことから源氏の追い討ちを逃れこの地に身を隠し、村の中心を流れる川向こうで暮らし始めたといわれる「平野家」


そしてまた約400年後には、橘正成を先祖に持つといわれる「橘家」。山間の厳しい環境に先に逃れてきた「星家」や「平野家」の人々は刀を置いたのだろう、この村で生きるために必要なのは刀ではなく助け合い命をつなぐこと、最後にこの地に逃れてきた「橘家」は刀を忘れ暮らす「星家」や「平野家」を身分下に見たのかもしれないとその住処を少し離れた場所に構えたという、そんな「橘家」ではあったがやはり檜枝岐の環境は厳しく皆と近くに暮らすようになったといわれる。


今も村へ行くには幾つもの深い山を越えねばならず、落人伝説が真実ならば深い山は彼らがその身を隠す役割を十分に果たしたに違いない、だが代わりに村を出ることすらも命がけだったという、今ほどに道路は整備されず山の隙間を縫うように道を作り、冬には深い雪に覆われ村から出ることなど出来なかっただろう、今でさえ大雪の日には村への道が閉ざされることがあるほどだ。そんな山奥に時代の変化の波は遠く待っていただけでは何も入ってはこなかった、そして落人伝説を持つ彼らは警戒心も強かったという。


彼らは米が育たない代わりに蕎麦を作り、山からは山菜や鳥獣を川から魚を獲り生き延びた。江戸時代には娯楽が無いため歌舞伎を、100年前には隣町から独立し役場を、電気が通らないため村人が資金を出し合い発電所も作った。厳しい環境の中で必要なものは自分達で生み出し自力で生き抜いてきた。
檜枝岐村に訪れた遅めの緩やかな時代の変化は新しきを喜び古き良きを大切にする心と共に訪れ、庶民の娯楽がTVや映画などへと移り変わり、全国に存在した農村歌舞伎が消えゆくなか檜枝岐歌舞伎はその姿を今に残した。
そして伝説が嘘か真か彼らが話すは南の言葉、隣町とは違った訛り言葉とイントネーションで今も話し、彼らの言葉を紐解くとそれは古語辞書に載る言葉に通じる。

投稿者: cool会津編集長